『愛と幻想のファシズム』〜蛇足編〜
1987年出版(日本)
著作、村上龍
イメージ画(小説に挿絵はなく完全に筆者のイメージです)
中二病体育会系男子トウジとヘンタイ芸術家ゼロが世界征服を目指す青春物語。
※ネタバレあり
はい、第三回目!(第一回目、第二回目)
「蛇足」というのはこの感想についてです。一段落ついていても書きたくなったら書く、そして公開したいときはする、それが筆者のジャスティス。
今回はトウジの人間性について、ゼロとの関係について、エヴァンゲリオンとの関連についてとかそのあたりを補足していきます。ゼロの魅力についても。
主人公のトウジは合理主義・冷徹・強い・魅力的という若きカリスマです。なんといっても一番の魅力はその声で、彼の演説を聞くと誰もが聞き入らずにはいられません。
トウジは「適者生存、弱者は排除」というハンターとしての経験から生まれた考え方で、無慈悲に邪魔になる相手を消していきます。
そんなトウジにはゼロというインディーズ映画監督の友達がいます。最初にトウジのカリスマ性を見抜いたのはゼロです。
アラスカの酒場で出会った二人。トウジは自殺しそうなゼロを引き留め、日本に連れ帰り親友となります。 ゼロは両親のお金で映画を撮っているお坊ちゃんですが、なかなか売れなくて悩んでいます。トウジとは正反対のもろくて儚い印象の男です。でもフルーツという超美人の彼女がいて、その点ではトウジはちょっぴり羨ましく思っています。
トウジとゼロは二人で政治結社・狩猟社を作ります。トウジを党首とし、ゼロが過激な宣伝でどんどん売り出していきます。「システムを壊す」「弱者を排除する」というのが狩猟社の理念です。
しかし、ゼロはあるとき気づくのです。「狩猟社自体がシステムになりつつある。っていうか、俺、弱者の側じゃね?」と。そして自殺願望が再び湧き出し、酔っぱらいながら手首を切って「トウジ〜俺ダメなやつだから〜本当にダメだから〜殺して〜」と言い出します(どこまで甘えるんだ!)。
たしかにゼロは弱い人間です。「弱者を排除する」という狩猟社の理念で言えば、真っ先に消さないといけないのですが、トウジはゼロを殺しません。
がんばって弱者の側から強者に変えようとします。
ゼロが問題行動を起こして狩猟社内で粛清の声が上がった時も、二人で北海道旅行に出かけて寄り添おうとします。
サシで飲みながらヒアリングしたり、冬山ハンティングに同行させて鍛えたり、あの手この手でゼロを強者の側にしようとします。
しかしゼロは相変わらずへにゃへにゃしています。ハンティングにはついてこられないし、飲んでいるときは映画のシナリオの話とかし始めます。
(お前のスキャンダルのせいで今、大変なことになってるんだぞ。わかってるのか!?)
トウジは気づきます。「こいつに体育会のやり方は逆効果だ」
それで、彼は映像制作が好きだから、宣伝係を任せます。これならできるだろうと。
やっとゼロは狩猟社の役に立つようになります。それどころか、すさまじい演出力で完璧に「カリスマ・鈴原冬二」を作り上げていきます。
でもやっぱりゼロはゼロで、強者の側を演じるのには無理があったのです。限界が来ていたのです。
だから……。
トウジはゼロのことを何とかついてこさせようとしたのに。
ゼロもトウジの期待に応えるためにがんばったのに。
狩猟社の目指す「システムの破壊」「弱者の排除」の自己欺瞞が浮き彫りになります。
トウジがゼロに「死ね」と言ったのは、システムに取り込まれる前の最後の人間的な感情であり、ゼロの死により狩猟社は完璧に巨大なシステムとなっていくのだな……と感じさせる終わり方でした。
地の文でのトウジはストイックでクールな雰囲気なのですが(内心も冷酷なことを言っている)、行動だけ見ると、もうこいつ、めっちゃゼロのこと好きやん!? みたいな。
実際に作品を読んでみないと伝わりづらいのですが、トウジは本当に合理主義なんですよ。怖いな……ってくらい。性格もオラついてるし(笑)。だからこそ「実際の行動面」でのゼロへの好待遇が異質です。
アニメ化されたら間違いなく腐女子が二人の同人誌を出すレベル。
トウジが単純にファシストとして台頭していくだけなら感情移入しづらいけど、ゼロがいることで人間らしさが出て面白くなるんですよね。素晴らしいキャラクター配置だと思います。「強者側」のトウジが「弱者側」のゼロにかなわない部分があるのもいい。なんたって読者のほとんどは「弱者側」なのですから。
ゼロの自分の才能についての苦悩やら、愛されたい欲求やら、やっぱり強くなれない弱さやら、トウジへの憧れやら、フルーツへの甘えやら、人間なら一つくらい感情移入してしまう部分があるのではないでしょうか。だからとても印象的で魅力的なのだと思います。
それにしても、読後の印象「ゼロは死んだ、なぜだ!(`;ω;´) トウジ、フルーツ、お前らひどすぎるわ(`;ω;´)」から「この人たちゼロのことめっちゃ好きだったんやな」まで気持ちが動いたんだから時の流れはすごいです。
『新世紀エヴァンゲリオン』にはこの作品からとったキャラクター名がたくさん出てきます。
監督の庵野秀明さんが『愛と幻想のファシズム』を好きだったからだそうです。
「鈴原トウジ」「相田ケンスケ」なんてそのまんま。キャラクター性も若干被るところがあるので(男らしい性格・カメラ好きなど)、この二人の見た目で冬二とゼロを想像してみてもまったく違和感がありません(笑)。冬二は関西弁はしゃべりませんが(笑)。
エヴァにはトウジのヒロイン的ポジションに「洞木ヒカリ」というキャラクターが出てきます。委員長で、いつもトウジとケンスケ(+シンジ)のバカ行動に怒っている女の子。
これも「愛と幻想の〜」の洞木さんに被ります。洞木さんは狩猟社幹部の一人で、新右翼です(狩猟社には右から左まで集まっています)。ゼロの撮ったエロビデオにドン引きして顔をしかめたり、北海道旅行に行く冬二を説教したりと真面目な人です。まさに狩猟社の委員長。それでも最後はどんな内容であっても、冬二の決断を支持するところがまさにヒロイン属性。そりゃあ庵野さんもヒカリの苗字を洞木にしますわ。
綾波レイの「レイ」もゼロ(零)から来てるのかな? と勝手に思っています。
「じゃあ、あんた、碇指令に死ねって言われたら死ぬの?」「ええ」というアスカとのやりとりもありますし。ここでビンタするアスカいい子。アスカは女の子なら最萌キャラ。
ゼロが自分が出演するエロビデオを撮って洞木さんにドン引きされる事件について。
これだけ聞くと本当にゼロは変態なんですが、彼の状況に鑑みてまじめに分析するとですね。
ゼロは両親のお小遣いで映画を撮っています。でも映画撮影って金がかかるし、たぶん賄い切れていないのではないかと。
そうなると、何とか自分の創作活動資金を稼がないといけません。趣味の活動に狩猟社の金を使うわけにもいきませんしね。
だから、エロビデオを撮って売って資金集めをしようとしたのではないかと!!(ドーン)
女優はなんとか玄人を確保したけど、男優まで雇うと費用がかさむ……だから、自分が出演したのではないかと!!(ドドーン)
そして、スキャンダルに発展した「SM風俗通い」事件。これは、取材だったのではないかと!!!(ドドドーン)
いやあ、ない話ではないと思うんですが、ここまで書いておいてなんですが、やっぱりゼロが変態なだけだと思います。
(まあどんな内容でも本人が芸術というなら芸術でいいんじゃない? 変態なのは否定しない!)
だいたい両親のお小遣いで映画作ってるって何だよ、高等遊民かよ、お前が自殺しにアラスカまで行った費用も親の金だろ、高等遊民かよ!
ゼロのことばかり書いていますが、それ以外の部分だと、トウジのお父さんの手紙が印象的です。
狩猟社の事務所がテロリストに襲われる事件があります。そのときに、その犯人たちは死んでしまう(トウジたちが殺す)のですが、その後、お父さんから手紙が来るのです。お父さんは、トウジが犯人たちを殺したのを察しています。
「お前の事務所を襲った連中が死んだと聞いたとき、父さんは悲しかった。トウジ、人を殺してはいけない。人を殺すのはむなしくなる。父さんも戦争でそれをよくわかっている。お前はやると決めたらやる人間だから何を言っても聞かないかもしれないが、父さんの気持ちだけはわかっておいてくれ」
というような手紙(細かい部分はうろ覚え)です。
トウジのお父さんなのにめちゃくちゃ普通です。
しかし、この手紙についてもトウジは、あれこれ思考を巡らせた後に「世の中には、人を殺すことが許されている人間が、ごくわずかに存在するのだ」で終わらせています。だめだこいつ、早くなんとかしないと……。何か、この時点で、狩猟社の末路が見えてきますね。
ゼロ以外だと、天才ハッカーの飛駒くんが好きです。インテリで若くて怖いものなしな少年です。オタク系なのにDQN気質wの山岸くんと友達なのが素敵です。
狩猟社にテーマソングを付けるならRADIO FISHさんの『PERFECT
HUMAN』一択ですね。レコード大賞を観ていたら中田さん・藤森さんがトウジ・ゼロに見えてきてしまって自分はもう末期だなと思いました(ダンサーは洞木・千屋・山岸・飛駒)。
(トウジはロック嫌いだからラップもアウトかもしれない)
このサイトの感想だけ読んでいると、どんな作品だよって感じなのですが、『愛と幻想のファシズム』は真面目な政治経済小説です。村上龍さんが好きな人にも、政治に興味がある人にも、世界征服したい人にも、エヴァ好きにも、キャラ萌えしたい人(ただし野郎ばかりだ、女はフルーツのみだ)にもおススメしたい一作です。
〜2018年追記〜
読み返してみたら、短編小説並みの長さで語っていて我ながら軽く引いたのですが、また追記をします。
何で自分、こんなにゼロが好きなんだ? と考えていて、上記に挙げ続けた理由以外にも、発覚したことがあります。
ゼロは夢なのだ。
ダメ人間の希望なのだ。
ダメ人間のゼロでも、冬二みたいな男に保護され、フルーツみたいな女に愛してもらえる。
そしていつか才能も開花させられる!!
そんな夢を見させてくれる。だからゼロが好きなのかもしれない。
まさしく愛と幻想だなあ。
人間だれしもが持っている弱さとかダメさとかを包み込んでくれて、「にんげんだもの」と許してくれるメシアみたいな存在(ついにメシアにまでなった)。
といってもゼロは怒ることがなく、冬二に偉そうにさせてあげて、彼のやることに付き合ってあげて、なんだかんだで器は広くて、いいやつだなと思う。
最近は冬二もけっこう推せる。
強くて合理主義、でもゼロやフルーツには甘い。そこが冬二さんの可愛いところ。
ゼロとトウジのそれぞれのしょーもなさを取り除いていいところだけひっつけたような人間になれたら一番だろうな、と思います。
そうなれるように、志だけは高く持っていたいです。
〜2020年追記〜
なんだかんだ、冬二よりもゼロよりも年上になってしまったので、また見え方が変わってきました。(追記:と思いましたが、私が二人の年齢を勘違いしていた模様。まだなってないっぽい)
冬二は一人になってもうダメだな……で終わった感想だったけど、今なら冬二がんばれって思うよ。生きろ。ゼロがいなくても、フルーツがいなくても、狩猟社がなくなって何物でもなくなっても。
作品的に観れば、鈴原冬二の未来は二つしかありません。
「人間ではなくなったまま世界征服に成功する」(バッド・エンド)
「途中で失敗し狩猟社もなくなり死ぬ」(バッド・エンド)
そのどちらにもならない未来。冬二が最後まで人として生ききる未来を望みたい。
独裁者でもカリスマでもなくなった鈴原冬二が、どんなにみっともなくても美しいハンターとして生きることを諦めない姿が観たい。
弱者であるゼロを見ていれば鈴原冬二は完全無欠でいられた。でももうゼロはいない。だからちゃんと自分の中の弱さと向き合って生きるんだ
。
サザンオールスターズの歌で「闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて」というのがあります。ゼロを失った後の冬二の姿に、私はこの歌が思い浮かびました。
”寄っといで巨大都市(でっかいまち)へ 戦場で夢を見たかい?
しんどいね生存競争(いきてくの)は…”
こちらもいい歌なので、web上に公式MVもありますのでぜひ観てみてください。
Nighte and
Day は悩んで、と自分は読みたい。
悩んでこの場所で 闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて。
〜〜〜〜
すっかり忘れていたゼロと冬二の出会いについてあらためて知る機会がありました。
(読み返したわけじゃないので、細かい部分が違ってもお許しください)
アラスカの酒場で飲んだくれているゼロに冬二、話しかける。
ゼロ、相手にしないような失礼な態度しかとらず、冬二、(なんだこいつ……)とイラっとする。
(ここのくだりの冬二、遠い地で日本人に会って喜んでたり、無視されたら久しぶりの日本語で発音変だったかな……と口の中で練習してもう一度話しかけたり、いちいちに可愛い)
ゼロ、しくしく泣き出す。
「鳩のエサだったんだ」←?
冬二、ゼロを部屋まで連れ帰って詳しく話を聞く。←!?
女神が天に昇るさまを金粉を振りまく演出で撮った。後日、撮影現場の公園に行くと、金粉を鳩がついばんでいた。
「俺の作ったものは、鳩のエサだったんだ」
それで絶望して死にたくなった。北極海に身を投げるためにアラスカまで来た。←!!??
爆笑
。
こんなん、好きになるしかないじゃん。
(いや、気持ちはわかるんだぞすごく)
映画のラストが「女神が天に昇るシーン」……本当にロマンチストだね
。
ついでに、二人が世界征服目指し始めた理由も。
「農場のバイトでこき使われた……もうやだ百姓嫌い、日本は農耕民族だからクソだ、みんなでハンター目指すぞ」(鈴原冬二、職業 フリーター)
「誰も作品認めてくれない……もうこんな世界やだ死にたい、いや俺が死ぬんじゃなくて世界を変えよう」(相田剣介、職業 自称芸術家)
おもろすぎるやろ。
終盤、 ダメ人間から完璧人間になっていくゼロ。代わりに人間味がどんどんなくなっていく。その様子は、ファシズムを推し進めるたびに人間らしさのなくなっていった 冬二自身を思わせる。冬二は、ゼロの変貌にいろいろな意味で焦りや恐怖を感じたのではないだろうか……。
読後すぐの印象「嫉妬した」も当たっているだろうし、その後に至った「ゼロを楽にさせてあげた」というのも、当たっていると思う。本当のところは、きっと鈴原冬二自身にもわからないだろうけどね。
しかしあれだね。この感想文。今読み返すと、読了後編は普通のレビュー気取ってて、ゼロ編で主観に寄りまくって、蛇足編で我に返ってエンタメに振り切りなおしているところにクロックロのモノカキとしての意地を感じるね。
(2023年8月追記)
「弱者は殺す」という狩猟社の理念的にはゼロは粛清対象ですが、やっぱりどんなに”弱い”と言われても無邪気で優しくてロマンチストで人たらしなゼロはどうしようもなく魅力的なんですよね。
感想文を読み返してみると、ダメっぷりばかり書いていますが、上記の魅力が前提にあるから好きになったのでした。
と思って、改めて書き足しました。
第一回(読みながら〜読了後の総括編)
第二回(ゼロについて熱く語る編)
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