クロックロの書斎

映画「国宝」どうしようもない

2025年公開(日本)
監督、 李 相日 脚本、奥寺 佐渡子 原作、吉田 修一
キャスト、吉沢亮 横浜流星 高畑充希 寺島しのぶ


※ネタバレあり




あらすじ
ヤクザの子だった喜久雄だが、親を失い引き取られた先で刺青を背負ったまま歌舞伎界に入る。
「血筋」か「才能」か。歌舞伎役者の家系に生まれたライバルと、共に芸の極みを目指していく。


 

冒頭に感想の要約を載せます。



【要約感想】

ただただ美に圧倒される三時間です。

内容は主人公は悪魔と契約して他をすべて捨て去り芸事に生きるが、本当に魂を売って人を超越したのか?

そんなことはないだろうというのが私の解釈です。

本当にそうなら、「忘れてへんよ」と即答できない。

むしろその才に魅せられた周りの人たちが彼から芸事以外のものを捨てさせていったのではないか

それは監督や鑑賞する私たちも含めて。

春江に結婚を拒否され。藤駒には二号で良いと言われ。

半二郎はやっぱり息子がかわいくて。

俊介には去られ。育ての母にも手放され。

いやおうなしに芸だけに追い込まれていく、それでもその道で生きていく覚悟を決める姿に、感動と共に感傷も覚える。

それは凄惨で残酷で美しくて、どうしようもなく惹かれてしまう。だからこその歴史的ヒットなのではないか。

惹かれていいのか、それでいいのか。

こういう極限に挑む存在には、人を超越した何かであってほしい。

そんな期待に反して彼は人間だった。と、私はしたいです。

「あんたのこと父親だと思ったことない。あんたは舞台で笑うためにたくさんの人を傷つけて泣かせてきた。でもお父ちゃんの舞台を見るたびに正月みたいな幸せな気持ちになるんや、何もかも忘れられるんや」というのを、体現してくる映画。

それでいいのか、の答えを提示する気はこの作品はたぶんない。

きっと自分もキラキラした何かを今後も追い求めていくし、またそうやって作られてきた世界が見せてくれるものに惹かれずにはいられないんだろう。

激情と寂寥と自虐と慈愛とほんのちょっとの恨みつらみとともに、悪魔さんに感謝やな。

(要約おわり)



【全文感想】

国宝を観ました。

いろいろ感想はあるのですが、映画の美と歌舞伎の美に圧倒され続けた三時間だったというのが真っ先に出てきます。
大長編なので飽きたらどうしようと心配だったのですが、面白いシーンしかなかったです。だれることなく最後まで興味惹かれていました。

また、もっとドロドロぐつぐつと厳しさのある作品かと警戒していたのですが、とても柔らかくて温かいお話で良い意味で裏切られました。

舞台がとにかく綺麗。
歌舞伎ってこういうふうな見どころがあるんだ、こういう風に楽しむんだというのがわかりました。
歌舞伎役者さんではない俳優さんたちが演じているのがすごいです。

歌舞伎の舞台のシーン以外もどこを切り取っても絵的で文学的でした。

横浜流星さんは「嘘喰い」でめちゃくちゃよくて注目してるんですが(べらぼうももちろん観てる!)、今回もすごくよかったです。
顔がいいのに顔で芝居してない、それこそ顔に喰われてないですね。
俊坊はいい子すぎて切なくなってくるようなキャラクターでもありました。作中で誰一人に対しても意図的に傷つけることをしないんですよ。唯一のわがままがたぶん淡く好きだっただろう春江と出奔したところか。

春江さんを演じる高畑充希さんは、本当に「昭和の女性」という雰囲気の繊細な演技をしていてすごいなと思いました。魅力的な女性でした。結婚できないくらい大好きだったんだよね、喜久雄のこと。俊坊とも後には同情・共感だけじゃない絆を作っていったと感じました。
でも二人の出奔は充分にひどくて、それでも許してしまうところに喜久雄も切ない。

主演の吉沢亮さんもめちゃくちゃよかったです。虚無感とふと見える人間っぽさが、喜久雄の人を超越したような部分とそれでも人の子である部分を伝えてくれました


この話は、「国宝」となる喜久雄が、芸事のためにその他を捨てながら、それでも最後に残った芸をきわめていく決意をする話に最初は思いました。
しかし本当は逆なのかもしれません

喜久雄が芸を好きだったのは間違いないでしょう。
でも、本当は、春江と結婚する幸せでもよかったかもしれないし、跡継ぎになれなくても俊坊と一緒に舞台に立ち続けられればそれでよかったかもしれないんじゃないかな。
何なら、父親と母親のところで徳ちゃんとバカやっていられてらそれでよかったのかもしれません。

娘・あやのには彼が芸事の為に周りを傷つけて泣かせてきたと言われましたが、むしろ周りが彼の芸に魅せられて、芸以外のことから遠ざけていったようにも思えました。

春江は「きくちゃんは役者や」と結婚にうなずかず。

藤駒は「あんたの芸に賭ける」と最初から二号でも三号でもいいと言ってくる。(この場面はまだ”わかってない”10代の子のおませって感じで好き)

半二郎は名跡は継がせてくれたし愛情もかけてくれていたと思うけど、それでもやっぱり落ちこぼれでも息子が可愛い父親としての心があった。(名跡を継がせてもらえることと死ぬ前に名前を呼んでもらえること、喜久雄にとってはどちらが嬉しかった?)

俊坊も自分の芸を見ていなくなってしまった。

育ての母親からは、詳細は語られていないが一方的に「これが幸せ」と手放されている。

彼は悪魔と契約をした。
けれど、本当に魂まで売って芸事だけにすべてを向けていたら、「忘れてへんよ。あやの」と即答することはなかったと思います。

藤駒と絆したのも春江がいなくなって彼女の期待に応えようかと思ったのでしょうし、そのうえで結婚しなかったのは、半分くらいは、もしかしたら春江が戻ってくるかも……という気持ちがあったのではないでしょうか。絶望的であり得ないことだとわかっていても。

あきこの「出てく! 行こ!」にそのまま押し切られたのも情はあったからで、でも「どこ見てるの!」と言われて、本当は、この期に及んでちゃんと自分が相手に向き合えていなかったことに気づかされてしまったからショックを受けたように思いました。

彼は芸事を愛しているけど、それだけじゃなかったけど、それだけになったから、どんどんうつろになっていった気がします。
俊坊が戻ってきて、自分も舞台に戻って、一緒にまた舞台をしてまた生き生きしてきたけど、俊坊も芸の中で散っていく。そこで本当に悪魔に芸以外のすべてを奪われてしまいました。

才あるものは芸にすべてを捧げるしかない。そこに希望を見つけるしかない。
選べたかもしれない幸せに背を向けてキラキラした何かを追い求めていく。ここまで辿ってきた道に意味はあったんだと思うために。

いやおうなしに芸だけに追い込まれていく、それでもその道で生きていく覚悟を決める姿に、感動と共に感傷も覚える作品でした。

それは凄惨で残酷で美しくて、どうしようもなく惹かれてしまう。だからこその歴史的ヒットなのではないか。
惹かれていいのか、それでいいのか。

こういう極限に挑む存在には、人を超越した何かであってほしい。そんな期待に反してきっと彼は人間だった。と、私はしたい。

人を喰らいながら芸を極めていく者もいれば、自ら喰らわれることで一蓮托生を望む者もいる。そこに意図せず巻き込まれる者もいる。ラスト、芸の世界を離れたところから見る娘の存在が作品を多面的にしていて素晴らしいなと思いました。
極め切れば償える、なんていうのも、自己満足なのかもしれない。

ただただ命を削るように輝くすべての表現者に敬意を。
そういう表現者をささえてきたこの世のすべてにも敬意を。


「あんたのこと父親だと思ったことない。あんたは舞台で笑うためにたくさんの人を傷つけて泣かせてきた。でもお父ちゃんの舞台を見るたびに正月みたいな幸せな気持ちになるんや、何もかも忘れられるんや」というのを、体現してくる映画。

それでいいのか、の答えを提示する気はこの作品はたぶんない。


余談。

歌舞伎界を離れてドサまわりして、誰も見ていないステージで芸をするところ。変な冷やかしに絡まれるところ。

同じに語ってはいけないかもしれないんですが、(最近はさすがにないですが)自分の活動初期に露店で作品を売ってたころ、買う気もない冷やかし集団にからかったりこかすような絡まれ方をされてたのを思い出して「うっ、頭が」みたいになってしまった(笑)。
いるんだよなあ。本当に、自分のわからない活動してる人を見下して気を大きくしてからかう人たち。
露店自体は良い出会いもあって楽しいんですけどね。


きっと自分もキラキラした何かを今後も追い求めていくし、またそうやって作られてきた世界が見せてくれるものに惹かれずにはいられないんでしょう。



激情と寂寥と自虐と慈愛とほんのちょっとの恨みつらみとともに、悪魔さんに感謝やな。



 


 

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