この小説は全体の筋はあるものの、一話一話は完結しているので、短くてとても読み易いです。
〜一話目、「曼珠沙華」〜
とても恐ろしいですが、最後は笑顔が見えたということで少し救われた気持ちになります。
そしてこの話にも宮部さん得意な問題児の兄が登場します。
人殺しの兄の存在のために奉公先が決まらない藤吉。ついに兄の存在を隠して奉公先を探すことにします。
死の間際の柿爺の「兄を見捨てるな」という言外の念押しが怖いです。
そして、人を恐れさせる恐怖の対象が自分だったという恐怖。
これはどんなものが見えているよりも怖い姿だと思います。
少し思ったのは、これはお今さんの証言なわけで、もしかしたらお今さんが、藤吉の罪悪感を刺激するために言ったのではないか……というものです。それはそれでとても怖い気がします。
〜二話目、「凶宅」〜
何だか腑に落ちない部分があるところが余計に怖いお話でした。
「お金」の出所はどこなのか……とか、結局わからずじまいでしたし。
清六は頑張ったんですね。自分の命と引き換えに、家を燃やすまで。
ラスト、座敷牢を忌んでいた家の娘が座敷牢に入れられることになるところがやるせないです。
おたかさんがおちかに遭ったことを知っているところが怖いです。
〜三話目、「邪恋」〜
ここでついに、松太郎の話が出てきます。
おちかのいいなずけを、松太郎が殺してしまうという話です。
しかし、最後まで読むと殺したはずの松太郎が可哀想になってしまいます。人間の心を反転させる展開には舌を巻きます。
はじめ、松太郎を最初に見つけた行商人と、丸千で、どちらが彼を引き取るかでもめます。
子供の松太郎が「丸千にいたい」と選択するところがいじらしいです。「丸千にいたい」は、「おちかのところにいたい」だから。
ここで商人について行っていれば、彼の人生は違ったものになったでしょうに。
おちかには父と母、喜一という兄、そして松太郎という家族がいました。
そして、近所に同じく旅籠をしている「波之家」という一家がいました。波之家の長男・良助と喜一は幼馴染でした。そしておちかと良助も幼馴染でした。
良助は年頃になると素行不良が目立つようになり、それを落ち着けるためにおちかとの結婚話が持ち上がります。
しかし、父と喜一は、「不良息子をまだ十四のおちかに押し付けるとは何事だ!」と猛反対するのです。
そして、良助をさらにやり込めて恥をかかせるために、「おちかは松太郎と所帯を持たせる」と吹聴するのです。そんな気持ちなど、はなからないのに。
人間の残酷な心理がよく描かれています。
波之家をやりこめたいがために松太郎をだしにする。けれど、松太郎をよいしょする父にも、兄にも、はなから松太郎のことが頭にないのです。
波之家の面目を潰すことが楽しくて夢中になってしまった。
悪気はなかった。
本気でもなかった。
松太郎が気にするはずがないと思い込んでいた。
読んでいてとても苦しくなります。
ほかにも、役に立つから、身内同然だからと言ってお金も払わず奉公人のように使い飼い殺していたり。
恩をかけてやった立場だからと。そしてそれが無意識だから怖いのです。
おちかはといえば、松太郎のことを好きではあったのです。松太郎がそうだったように――。
好きだった。
おちかのなかには十四の小娘の本気があった。
「でも線引きはしていた」。
松太郎は捨て子だから。結婚できる相手ではないと母親にたしなめられ、すぐに納得してしまいます。
松太郎が好きという想いに固執できるほどには、まだ女になりきってもいなかった。
子供だったのだ。
そして三年後、まともになった良助から、改めておちかに結婚の申し入れがあります。
良助は元々は喜一と仲がよかったし、おちかとも幼馴染です。大人になり自分の素行を反省できるようになった時、改めて二人と家族になりたいと考えたのでした。
結婚前、裏庭で逢引しているところに松太郎が現れます。
――おめでとうございます。良助さん、どうぞお嬢さんをよろしくお願いいたします。
これが良助の逆鱗に触れます。「お前なんかがおちかをよろしくだと。身の程をわきまえろ、野良犬め」と。
これに対して松太郎の答える、
――ただ、俺は本当にお嬢さんに幸せになってほしくって。
の切なさ。胸を締め付けられます。
けれど、良助も辛かったのだということが読んでいてわかります。
散々に侮辱され、おちかも喜一兄も松太郎にとられて自尊心をボロボロにされたことでしょう。
しかも松太郎の方が美丈夫と来た。そりゃあ良助はいまいましかったことでしょう。
「二人を一度に取り戻し」という表現にもその心情がよく表れています。
これは丸千が最低だということでしょう(しかしこの感情も、最後まで読むとひっくり返るからこの小説はすごいのです)。
これでもかというくらいに良助に罵られた松太郎は、良助に肩を抱かれながら離れようとするおちかに投げかけます。
――おちかさんも、俺のことそんなふうに思っていたんですか。
辛い。辛すぎる。
激高した良助が松太郎に殴りかかりますが、今度は松太郎も抵抗します。本気を出せば良助よりも手負いの松太郎の方が強かった。そういうところにも萌えますね。
先に鉈を手にしたのは良助です。鉈を取り上げて松太郎は良助を殺してしまいます。
――俺のこと忘れたら、許さねえ。
おちかにこう言い、かつて拾われた崖から飛び降り自殺する松太郎。
命を助けてもらった崖から飛び降りて今度は死ぬという選択に、彼の心情を思うと胸が締め付けられます。
正当防衛とまでは言えなくても、松太郎を強く責めることのできる話ではありません。
良助を選びながらも、松太郎を完全に切り捨てるわけでもなく。そういう自分の卑怯さが、松太郎を最も絶望させたのだろうとおちかは考えます。
良い子のままでいて、松太郎にも憎まれたくないか。
きっとおちかは、叔父叔母夫妻の家で奉公人として働くことで、松太郎と同じ境遇を望んでいるのでしょう。家族でも奉公人でもない、半端な立場に置かれた松太郎と同じ境遇を。
しかし、「松太郎と所帯を持たせる」と言っていたのは三年も前の話なわけで。それだけ年月が空けばおちかや周りの気持ちが変わることも普通にあるかと思うのです。だからそのことで、松太郎をぬか喜びさせたというのも何か背負い込み過ぎかなという気がします。
これはきっと現代人の感覚なのでしょうね。
丸千のしてしまったことの邪悪さや松太郎の辛さ、良助の恨みはよく理解できますしね。
〜四話目、「魔境」〜
咳の療養のために離れて暮らしていた姉が、年頃になって戻ってきたら、兄と恋に落ちてしまったというお話。
そのことを進言した奉公人の宗助は「嘘をつくな」と激高され殴り殺され、兄は遠方に修行に出され仲を割かれた姉は首をくくって自殺してしまいます。
姉の死後、姉の遺品はほとんどお寺に出されてなくなってしまいました。
そんな中で、ほとぼりが冷めて帰ってきた兄に、妹のお福は「姉の形見だ。姉さんを思い出すたびに覗いてごらん」と手鏡を渡されます。「母さんたちには内緒だよ」とも。
お福は、その、内緒だよという兄のやり口がなんだかイヤで、鏡を取り出してみることがありませんでした。
最終的に鏡は、兄が連れてきたお嫁さんが覗くことになりました。
これがばれたとき、母親に兄がすらすらと嘘をつくところが怖いです。
宮部みゆきさんの話は「嘘」を取り扱うシーンが多いです。
真実を知っている立場で、真顔で嘘をついている人を見るのはこの上なく恐ろしいでしょうから、人間の恐怖を描くうえで必要不可欠な要素なのかもしれません。
しかも、この鏡は覗くと魂を閉じ込められ、代わりに姉が表に出てくるという恐ろしいものです。それを実の妹に覗かせようとするところに、恐怖を感じます。
結局、お福の暮らす石倉屋は滅んで終わりました。
しかし、お福は現在、幸せに暮らしています。そのことは同じようにつらい目に遭ったおちかにとっても、救いになる話です。
「もう普通の子供と同じように、当たり前に生活していいのだ」と。
お福が語っても、おちかは自分は違うと考えます。丸千で起こったことは、自分が原因なのだからと。自分が悪いのだからと。
そんなおちかにお福は言います。ここからのお福の台詞は非常に胸に響きました。
「ならば、わたしの家で起きた不幸は誰のせいになりますでしょうね? 姉ですか。私たちの姉のお彩が、すべての罪科を背負うべきでございましょうか。実の弟をたぶらかし、人の道を踏み外させただけでは足りなくて、死んだ後も妄念を残し、石倉屋の者たちに災いをもたらした。ええ、とんだ悪女でございます。お彩はそういう、悪いことをするためだけに生まれついた女っだったんでございましょうかしら」
「わたしは、そうは思いません。姉だって、好きこのんで呪われたような咳の病にかかったわけじゃございません。望んで親元を離れて育ったわけじゃございません。石倉家に仇をなそうと、兄に恋したわけじゃございません」
そして、松太郎に対する丸千の人たちの行動についても。
「わざとしたわけじゃございませんよ。松太郎さんを不幸にしようと思ってなすったことじゃございません」
人間誰だって、そのつもりがない行動で、人を不幸にすることがある。でも、わざとそうしたわけではない。誰もが心の中にくすぶらせている疵を癒してくれる台詞です。
子供の頃のお福は死んだ姉が夢に出てきて怯えていました。そんなお福に、女中は「姉がどんな表情だったのか」を聴きます。姉は自分の顔を見て笑ったとお福が答えると――。
――なんだ、それなら何にも怖いことなんかございませんよ、お嬢さん。
この女中の言葉がお福を救います。
そして読んでいる側にとってもハッとなる内容でした。
亡者に命をあたえるのも、浄土を作るのも人の心だと。
これは実際の人間関係でも言えるかもしれません。相手を必要以上に悪く、怖く思ってしまうのは、自分の心なのかもしれません。
このように、いろいろな人の業を背負った話を、「百物語」という形で受け止めることによって、おちかの心は少しずつ少しずつほぐれていきます。
お福を連れてきてくれた女中・おしまに、おちかが思った気持ちは複雑です。怒っているわけではない、けれど――。
踏み荒らされた気がしたのだ。
たぶん、どうされたって、どう接されたって、受け入れられない時期というものが人間にはあります。だからこそ、普通に生活を続けたり、他の人の話を聴いたりして心を整理する時間が必要なのです。
心が回復した時には、当時は受け止められなかった人の優しさが、しみじみ体に染み渡ることになります。そのことを知っておけば、いたずらに人の優しさを拒絶せずに済むかもしれません。
〜最終話、「家鳴り」〜
おちかの元に喜一兄さんが訪ねてきます。単に様子を見に来たというだけではなく、心配を抱えているようでした。
なんと、松太郎の亡霊が喜一の前に現れるということなのです。
松太郎は恨んだり怒ったりしている様子ではなく、迷子で途方にくれているような態度だったそうです。
喜一は松太郎を「松公」と会話の中で自然と呼びます。懐かしい、とおちかが感じる、ただそれだけで、この呼び方が親しみをこめたものだと伝わります。
松太郎が喜一の前にだけ現れるのは、喜一兄さんを本当に慕っていたからなのでしょう。
話を聞くうちに、おちかは嫌な思い出だけでなく、よかった部分も思い出すようになります。
「兄さん、懐かしいね」
あのころが。あんなことが起こる以前のみんなが。
おちかの心情には胸が詰まります。作中で一番心に残りました。
そして、「凶宅」の蔵に松太郎が引き込まれていることを知ったおちかが、松太郎とおたかの魂を取り戻すためにおたかを支配する蔵のある家へ入ります(精神世界)。
ここから急に話のテイストが変わってきます。
今まで登場した死人の魂が集合し、みんなで立ち向かっていくという少年漫画のような熱い展開になります。
「曼珠沙華の花畑は安全」というのもゲームや漫画の設定みたいです。
これはこれでよかったのですが、展開もあっけなく、拍子抜けするラストでした。
もっと松太郎が丸千をどう思っていたのかとか、深く心情を知りたかったです。恨んでいないことだけはわかりましたが、もっと知りたかったです。
無理やりバーッとまとめたような感じを受けました。
それでも、みんなが助かって、松太郎とも話ができて、おちかは前を向けて、ハッピーエンドとなるところはよかったです。
「蔵」は引き込みたかったんじゃない、ずっと出たかったんだな……というところは胸がぎゅっとなりました。
人間の業の描かれたとても恐ろしく、悲しい物語ながら、最終的には人間の情につながっていくという、感動的な物語でした。
実に人道的だ、ヒューマニズムに溢れている!
……そんな中で、これだけ死人が出てくる中で、良助だけは現れず、深く語られることもない。そこが、なんだかとても薄ら寒かったです。
結局、おちかの気持ちもどちらにあったのやらですし、蔵の番人の言う通り、良助が可哀想すぎます。
わざとそうしているであろうところが、宮部さんの妙技です。
どうやらこの小説は続編があるようなので、もしかしたらその中で良助への想いについても決着がつくのかもしれません。