『ゴーマニズム宣言(5巻)』を読んで
1994年出版(日本) 著作 小林よしのり
小林よしのりが世の中のいろいろなことにごーまんをかます漫画。
古い作品になるのですが小林よしのり先生の「ゴーマニズム宣言(第五巻)」を読み返しました。
親の持っている漫画で、前に読んだのはたぶん小学生の時だと思います。
内容はほぼ理解できていなくて、ただただ小林先生がゴーマンなのが鼻について当時はあまりよい印象を持っておりませんでした(笑)。
今読み返してみるとそうでもなくて、小林先生は非常に人情家でありそこらの人よりよほどモラルの高いひとなんだろうなと思いました。
自分は物事を理屈で考えるタイプなので、情によりがちな考え方は、思想的にはすべて賛同というわけではないのですが、(あくまで作品から読み取れる範囲で)人間としては嫌いじゃないです。
表現規制(差別用語)について描かれている部分には、非常に感銘を受けました。
自分はバリバリの表現規制は反対派です。差別意識を持って使うから差別になるのであって、この世に特定の「差別用語・使ってはいけない言葉」はないと考えております。
だからといって、表現規制に反対するためにことさらに差別的な言葉を使うのは下品だし違うよなと。
自分はブラックユーモアが好きなので、作品を作りながら、あえて過激な発言をさせたい衝動に駆られたりします。しかし、ただひどい言葉を使うだけでは、ブラックであってもユーモアではないです。
差別用語規制に反対するための行為が、本当に差別になっていないか考える必要があります。
この世に特定の差別用語はないけれど、差別的意思を持って使えば普通の言葉だって差別用語になります。
表現規制はよくないからこそ、描く側も最低限のモラルは必要だよねという話です。
(世の中には風刺やアンチテーゼもあるので、表面的なものだけでは判断できませんが、心根の問題です)
と、同時に、ゴー宣では糾弾をする側にもモラルや質は問われるということが描かれています。
差別でも何でもないものでも、必要な描写でも、糾弾をされてはたまったものではありません。
そこに本当に正当性があるのかどうかということはしっかり考えていただきたいものです。
糾弾というのは他人の表現の自由に踏み込む行為です。
それなりの責任を持ってするものだと思います。
一番闇が深いと思ったのは「自主規制」というものですね。
抗議が来る前からおびえて自分で自分の表現の幅を狭めてしまっている。
自分のモラルと照らして、よくないと思ってやらないならいい。
しかし、「抗議が怖いから」頭では問題ないと思いつつも自主規制してしまう。
一つやったら、あれもこれもと規制していくことになる。
業界の権威がそんなことをしたら、右に倣えでそのうちどんどん誰も好きなものが描けなくなっていくでしょう。
だから、そういう自主規制はよくないと自分は考えます。
作中に「糾弾されて死んだ人間は一人もいない! だからわしは糾弾されても怖くない!」とあり、自分にも勇気が湧きました。
間違っていたと思えば反省して改めればいいし、あくまで正しいと思うならば、他から何を言われようが堂々としていればよいのですね。
最後の「ごーまんかましてよかですか?」では、
「表現の自由に法律の制限を介入させる事態は避けよう! 人間が自分の中の倫理でコトを裁けるようにレベルアップしないと差別の根は断ち切れないぞ! みんな進化しろ!!」
で締めくくられています。
まったくその通りだと思いました。
現在はインターネットも発達して、個人が簡単に世に自分の言葉を発信できるようになりました。
だからこそ、言葉に自覚と責任を持たなければならないですね。
(クロックロの書斎LINEスタンプ)
▲ホームへ戻る
▲クロックロの感想文へ戻る
▲一番上へ戻る
|