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クロックロの日記 

 


『人間失格』
1948年出版(日本)
著作、太宰治 
人間失格イメージ画
イメージ画 


 周囲におびえて道化を演じ続けた男の手記。


※ネタバレあり

 

 太宰治の「人間失格」を読み返した。

 前読んだのは10代半ばだった。
 分かってしまう部分があったから葉蔵が好きだった。

 歳をとった今、自分にはこの小説を、書かれている通りに純粋に読むことはできなくなってしまった。
 でも真理だなと思うところはある。あとはやっぱり、文章はうまい。小説家にうまい、も失礼な言い方だけど。

「そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。」

 という部分は、今でも愛しく感じる。
 いじらしいじゃないか。

「こうすれば可愛くみえるだろう。受けるだろう。それを実行していく。」
 でもだれしも、人間の外側ってそうやってできていくものではないのか。だからこそ「人間失格」は、人間失格の話でありながら、名作として人の心に残るのではないのか。
 脳病院に入れられたらキチガイ、入れられなければノーマル、という振り分けが、まさに紙一重に思う。

 ラストに酒場のマダムが葉蔵を「いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」と言うんだけど、この一言があるから、この作品はバッドエンドではなく、救いの物語なのかなと思った。葉蔵にとってではなく、世の中の人間失格者すべてにとっての。

 

 ゴッホについて書かれたくだりはハッとする。

「この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ」
「何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている」

 もしかしたら太宰は絵に興味があったのかもしれない。

 

 この物語は手記である。
 葉蔵自身の自分の人生への盛大な言い訳みたいな感じがあってそこも興味深かった。
 言い訳、いや、こんな人でも、自分のことわかってほしいと思ったのかもしれない。


 私は、といえば、当時かいていた小説への影響が強すぎて冷や汗が止まらない。小説どころか、漫画にしろ何にしろ、私の作風の根底部分にかなり影響がある。
 他にも好きなキャラクター、もっと好きといえるキャラクターはいるんだけど(ゼロとか乾さんとか)、キャラ造形で一番、影響受けているのは葉蔵なんだな。
 何か不思議だ。一人称の小説だったからか。やっぱり共感部分が多かったからか。もちろん、全部がわかるわけではないが。

 

 

以下は細かい感想です。

〜気に入った表現〜

 人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

 

 自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、


 もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。


 たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾でピシッと腹の虻(あぶ)を打ち殺すみたいに


 尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。

 この感じ、すごくわかってしまう(自分が尊敬されているとか言いたい訳ではない)。
 
尊敬されたい気持ちはあるけど、同時に恐怖もある。

 お茶目。

 強調したい文章が、改行されて書かれているのがイイ。

 これ以外にも、

「ワザ。ワザ」

 モルヒネの注射液でした。

 脳病院でした。

 とか、改行で入るたび鳥肌が立つ。
 特に「ワザ。ワザ」の恐怖はすごかった。
 読み返したのは10年以上ぶりなのに、しっかり覚えていたくらい。


 父に訴えても、母に訴えても、お巡(まわ)りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

 自分は、これまでの生涯に於(お)いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。

 

 あと、さすがと思ったのは、「ハロルド・ロイドにそっくり」、と書くだけで、イケメンなのが伝わるところ。


 これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、

 これ。すごくわかる。
 こういう心があるなら、葉蔵はしっかり、人間だろう。
 葉蔵は周りの人間を恐怖するけど、たしかに、読んでいれば葉蔵よりも周囲のほうがよっぽど「人間ではない」と思うくらいに残酷性がある。
 マダムとかヨシ子とかそうでないキャラも出てくるけれど。
 笑われるのはいいけど、バカにされるのは嫌だ。

 或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが

 ある側面で真理を感じる。


 その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです


 好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。



 情死事件や、妻のこと、先にちらっと見せるところがうまい。


 弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。


 女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。

 この時代にも自殺ほう助罪があったのか……。


「ほんとうかい?」

 怖い。
 本当のきちんとした大人にはお道化は通じない。
 もしかしたら他にも見抜いていた人はいたかもしれない。


 お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。

 この感覚めっちゃわかる(笑)。
 なんではっきり言わないんだよおお。何で遠まわしするんだよお。わかんねえよおおお!!


 何か、おとなの生活の奥底をチラと覗かせたような笑いでした。

 自分にとって、この世の中でたった一つの頼みの綱は、あの堀木なのか、と思い知ったら、何か脊筋(せすじ)の寒くなるような凄(すさま)じい気配に襲われました。

 考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。

 それから、そのおしるこを喜ぶ堀木に依って、自分は、都会人のつましい本性、また、内と外をちゃんと区別していとなんでいる東京の人の家庭の実体を見せつけられ、内も外も変りなく、ただのべつ幕無しに人間の生活から逃げ廻ってばかりいる薄馬鹿の自分ひとりだけ完全に取残され、堀木にさえ見捨てられたような気配に、狼狽(ろうばい)し、


「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

(世間とは個人じゃないか)


 マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。

 少しずつ世の渡り方を知るようになる。人間に近づいていたはずだった。
 しかしそれでも、無理が生じていくのが悲しい。


「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」
「堀木正雄は?」
 この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。

ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、

 とても残酷な現実を見せられているよう。

 葉蔵にたかりながら、「俺はお前みたいに女に金を使わせたりしない」とのたまう堀木は本当に醜い。お前が葉蔵にたかることで、葉蔵が女房の着物を売らせたりすることになるんだろう。


 ……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。

 ここだけは、堀木の優しさが見える。


 ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。


「怒り」は自分が許すか許さないかの選択で終わらせることができる。というのは、自分にとっては収穫となった。
 たぶん、ここのシーンはそこにフォーカスされたものではないんだけども。


モルヒネの注射液でした。

 ああ……終わりの始まり……。

自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、

 作中で一番、切なくなる文章だった。


 つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。

 入れられなかっただけで、まとも面できるんだ。入れられる前までは、自分も同じ場所にいたのに。入った瞬間、気違いだ。
 ――と、そんな思いが湧く(葉蔵じゃないのに)。

 まあ、現実の話をするなら、社会生活を営めないほど心を壊されてしまった人は、とにかく治療したほうがいい。と思う。


 人間、失格。
 もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

 この衝撃。「人間、失格」この言葉の登場の仕方。


 自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

 手記の最後に年齢を出す演出には舌を巻く。
 今の二十七と、昔の二十七は違うかもしれない。
 それでも、たったの二十七年間の話なんだと思うと、本当に絶望を感じる。彼の人間の人生はたったの二十七年で閉じてしまった。

 

〜その他〜

 当時の日本の感じが伝わるのも読んでいて興味深かった。
 この時代でも学校生活の様は今と変わらないなと思ったり。寮生活がいや。団体生活ができない。ハイスクール・スピリッツ(笑)。

 雑誌社の母子が子ウサギをかまうシーンは情景が浮かんでとても切なくなる。
 仕事すらもシゲ子のつてでもらっているから、シゲ子から逃れられない。けれど、最後は、シゲ子たちの幸せのために強い意志で離れた。自分のため→二人のため、となったのは葉蔵の人間性だと思う。
 けれども、相手からしたら、飲み歩いたあげく蒸発されたわけで、たまったものではない。世間の見方と、葉蔵の内面には大きな隔たりがある。


〜終わりに〜

 自分の意志なく流れ流され続けた男の子の行く先。何とも悲しい。


 けれども、ラストの、

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
 何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 マダムの発言が救済になっている。

「いいえ、飲んでも」、というところに、救いがある。
 人間、それでも好き、って、言ってもらいたいものだから。

「私」、ではなく、「私たち」というところもいい。

 この物語は、単純に悲劇を読ませる意図のものではないのだ。

 太宰の書いた「ハムレット」がある。原作ではオフィーリアは死んでしまうのだが、太宰版では、叔父がハムレットに「心配しなくてもオフィーリアとちゃんと添わせてやるから」って言う。
 そこにすごく太宰の親心を感じたんだけど、人間失格でも同じものを感じた。
 キャラクター(そしてそれは読者でもある)への愛情や親心で作品を作る人。太宰治はたぶんそういう作家。
「神様みたいないい子」――案外まちがっていない。

「人間失格」は太宰の私小説のようにも言われるけど、そういう側面もあるかもしれないが、葉蔵は葉蔵として切り分けて考えたいなとも思う。
 実際がどうであろうと、フィクションとして世に出されたものなら、フィクションとして読むのが、マナーだ。
 だからこそ安心して、作り手は自分の古傷すらも晒すことができるのだ。


 人間失格はいろんな作家さんが映像化やイラスト化しているけど、正直な感覚で言えば、葉蔵は具象化できるキャラクターではないと思う。でもそれぞれの解釈が、興味深く「それはそれ」として楽しめるから良し。
(といいつつ、自分はちゃっかりイメージ画を載せている)

 ラストにもう一枚。

人間失格イメージ画

具象化できない外観はいっそ捨象して、本質だけでも絵にしたかった。



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